朝鮮植民地支配における天皇の責任
1910年から1945年の敗戦時まで、
朝鮮を植民地統治する機関として置かれたのが朝鮮総督府であり、
その朝鮮総督府の最高責任者が朝鮮総督である。
朝鮮総督は天皇に直隷し、その任命も天皇によって行われた。
これは当時の法的・制度的な事実である。
◆法的根拠と権限の源泉◆
1910年の「韓国併合」に伴い制定された勅令第319号(朝鮮総督府官制)では、
第一条で「朝鮮総督は親任とし、天皇に直隷して朝鮮を管轄す」と明確に規定。
総督は陸海軍大将をもって充てられ、委任の範囲内で陸海軍を統率し、
一切の政務を統轄する権限を与えられていた。
◆立法権◆
総督は日本国内の議会(帝国議会)を経ずに、
「勅令」または総督自身の「制令」と呼ばれる命令をもって
法律に代わる制度を制定することができた。
これは正に議会を介さない、天皇の権威に裏付けられた植民地統治の根幹である。
◆責任の体系◆
総督は内閣総理大臣ではなく、天皇に対してのみ責任を負う立場にあった。
つまり植民地統治の最終的な権威は天皇にあり、
総督を通じて行われた強制連行・経済搾取・弾圧といった統治行為の最高責任者は、
制度上は天皇に他ならない。
戦争犯罪と天皇の責任
中国をはじめとするアジア諸国に対して日本が犯した戦争犯罪についても、
当時の統治構造から見れば、その責任が天皇に及ぶことは明らかである。
◆統帥権の独立と天皇◆
大日本帝国憲法第11条は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定めており、
天皇は軍隊の最高指揮官(大元帥)であった。
すべての重要な軍事作戦は「奉勅命令」として天皇の裁可を経て実行された。
盧溝橋事件から南京攻略、真珠湾攻撃に至るまで、
その都度、天皇は軍部から報告を受け、
自ら意見を述べ、時には責し、作戦計画を承認していた。
◆開戦と終戦の決断◆
1941年12月の対米英開戦の最終的な裁可も、
1945年8月のポツダム宣言受諾(終戦)の「聖断」も、
いずれも天皇自身の意思決定によるものであり、
戦争を始めて終わらせるという権限を行使した事実は、
戦争責任の核心部分を天皇が担っていたことを示している。

しかし日本政府と日本人達は敗戦後に新しい体制を執るにあたり、
最高責任者である天皇の戦争責任を追及せず、
それどころか「国民統合の象徴」として天皇制を温存する道を選んでしまった。
日本は敗戦後に連合国軍(形式上)の占領下に置かれたが、
冷戦構造の開始とともに、米国の対日政策は転換する。
日本を「反共産主義の防波堤」とするため、戦争責任の徹底追及は後退させ、
象徴天皇制は、アメリカの戦略的判断のもとで「与えられた」ものという側面もある。
東京裁判では一部のA級戦犯こそ裁かれたが、天皇は免責された。
これが日本社会における「歴史の総決算」を曖昧にし、
「日本は戦争に負けたが、東京裁判は不当だった」だの
「アジアへの侵略戦争は自存自衛のための戦いだった」だのといった
後年に歴史修正主義や責任回避の言説が幅を利かす原因になったと考える。
日本国憲法第1条で「日本国民統合の象徴」とされた天皇の地位は、
一方で戦争への反省と平和国家日本の象徴であるともされてきた。
しかしその地位に就く人物自身が戦前戦中の意思決定者であった場合、
あるいはまたその加害責任・戦争責任が法的にも道義的にも追及されないまま継承された場合、
「統合の象徴」は「加害の記憶の封印」の上に成り立つことになり、
これがアジア諸国との真の和解を困難にしている。
厳しい現実に向き合う事を避け、
問題解決の道を自ら塞ぎ、
目の前の「利」に飛びつこうとする悪癖。
敗戦後の天皇免責に始まったこの悪癖が
その後の種々の問題の山積を生み出し、
現在の二進も三進も行かない状態に日本社会を追い込んだのではないか。
敗戦時の出発点に立ち返り、根本から大幅な構造改革をしない限り、
日本はこのまま没落の道を辿るのではないかと危惧する。
非情に危惧する。
安倍某が言った「戦後レジームからの脱却」という言葉とは正反対の、
真の意味での「戦後からの卒業」 が必要である。