人気ドラマの舞台の街には、重たい過去があった

2019年放送の韓国ドラマ「椿の花咲く頃」。
浦項市(포항시:po-hang-shi)の九龍浦(구룡포:ku-ryong-po)が舞台となったこのドラマは、
名優達の熱の入った演技と、観る人の心を震わせる物語が評価されて、
数々の賞を受賞することになった。

実は俺がこのドラマを観始めて「ん?」となったところがあった。
舞台となっている街の表通りが日本家屋だらけなのだ。
もしかして…、いや、もしかしてじゃないな。
確実に、日本植民地時代の名残なんだろうなと思うと、
ドラマの展開とは無関係に、なんだか気が重くなった。

浦項市の場所はここ。慶尚北道東海岸の港湾都市。釜山までは直線距離で100km程。

そして九龍浦は、東海に突き出た形の岬のEの辺り。

ドラマ鑑賞後からしばらくして九龍浦の街に再会したのは、
「キム・ヨンチョルの洞内一周」という番組でだった。
数々の印象的な役を演じてきた名優キム・ヨンチョル氏が、
韓国各地の街を散策し、歴史的建造物や名人、隠れた名店と出会う、
小さな宝探しの様な旅紀行ドキュメンタリー番組。
九龍浦は、第14話の浦項市編の中の散策コースになっていた。

街の歴史を解説するヨンチョル氏の声が流れる。

100年前、村の半分は海でした。
日帝強占期時代、日当たりのよい土地は日本人のもので、
本来この地の主人であった九龍浦の人々は、

海を埋め立てて家を建て、暮らさなければなりませんでした。

洞内の散策が始まる。

日本人が営業しているのか、日本語の看板のついた店もある。


あぁ…、日本風だね。嫌になる。

こっちにも…

日本家屋通りを歩きながら、ヨンチョル氏が語る。

九龍浦が黄金の漁場であるという噂を聞いた日本人は、

ここに港を作り、大きな船を持ち込みました。
しかし韓国の人々にとっては、船を所有することさえも、
日本人の目があり簡単ではありませんでした。
日本人が住んでいたこの通りを歩きながら、
この九龍浦にこの様な苦しみがあったんだと思うと、心が重くなります。

次に向かったのは、「九龍浦忠魂閣」がある九龍浦公園。
公園に上がって行く階段の横には石柱が欄干の様に並んでいる。
この石柱には元は九龍浦港を作る為に貢献した日本人の名前が刻まれていたそうだ。

しかし1945年の日本敗戦・朝鮮解放直後、
町の人達が日本人の名前をセメントで塗りつぶし、韓国の人々の名前を新たに刻んだ。

ヨンチョル氏が語る。
純朴な九龍浦の人々には、これまでの悲しみを表現できる最善の方法だったのでしょう。
階段を上る間ずっと、本当にいろいろ考えさせられました。

階段を上がった先の公園に立つのは大きな石碑だ。
日本人が建てた「顕彰碑」なのだそうだが、表面がセメントで塗りつぶされている。
なんでもかんでも壊して無くしてしまわないのは、
苦い歴史を胸に刻んで、二度と同じ屈辱は受けないという彼らの静かな意思表示なのだと思う。

塗りつぶされた石碑を見上げながら語るヨンチョル氏。
あぁ、その昔、九龍浦の人々がどれほどつらい思いで多くの年月を過ごした事か、
本当に誰が言わずとも、悲しみがそのまま感じられます。
ただただ活気のある港町だと思っていたのですが、
このような悲しい歴史を抱えていたんですね。

韓国には九龍浦の様に、日帝植民地時代に建てられた日本家屋や建造物が残る場所は多い。
しかしそれをして、「結局日本が作ったものを有難がってるんじゃないか」と考えてはいけない。
よそ様の国に上がり込んで好き放題やらかして、
「善いこともしてやった」みたいな勝手な思い込みは棄てなければならない。
彼らは国を立て直すために、残っていた建物を使っただけなのだ。
修繕して使える間は大事に使う。合理的な考え方でしかない。

我々日本人は、韓国の地にこういう場所がある事を知ったら、
あるいはまた韓国に旅してこういう場所に出会ったら、
それを、あの時代に朝鮮半島で日本人達が何をしたのかを考える、
そしてその時に韓国の人達はどれほど苦しみ悲しんだかを考える
絶好の機会だととらえればいいと思う。
その為に残されている場所なのだと、俺は思う。

※アイキャッチ画像に使わせていただいた写真は、浦項市ホミ岬にある記念碑。

「共存の手」と名付けられていて、
人類が和合し、和解し、共に生きる社会を作ろうという意味で作られた造形物である。
日本人が、どうすれば本当の意味で韓国の人々と和解できるのか。

加害者としての立場から、しっかり考えたい。

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