大阪生野区 世代を継いだ故郷の食卓

X(旧ツイッター)で俺の日帝植民地政策批判の呟きを引用してくださった
ある在日コリアン三世の方のポストをここに掲載させて頂く。
(ご本人からの転載許可は頂いています)

日本と朝鮮半島はそれぞれに別の文化があり、習慣があった。
他国から見れば、発展の遅れた『後進国』であったとしても、
市井の人々には、その文化や習慣に基づく普通の暮らしがあった。
そして国家には自決権がある。
自分達の国に運命を決める選択権がある。

それによって貧乏にもなれば金持ちにもなり、
不幸にもなれば、幸せにもなっただろう。
どんな結果であろうとも、国の運命を決めるのは国民が決めるべきことだ。

日本は私達の祖先から自決権を奪い、選択権を奪った挙げ句、
消えることのない恥辱を与えてきたのだ。
そもそも抑圧や強制のない占領支配など、あり得ないのだから。

朝鮮半島に於ける日本の植民地支配は
欧米列強のそれに比べて穏当なものだったと妄言を吐く
日本人は多い。
しかしこれは支配者側の主観的で傲慢な考え方でしかない。

在日コリアン
日本は戦中、自国の一般市民や兵士達の命をどう扱ったか。
それを顧みれば、日本が蔑視していた国の人達をどう統治したか、
そんなことは簡単に想像が出来るはずだ。

日帝によって自決権、選択権を奪われ、
拉致同様に強制的に日本に連れて来られ、
タコ部屋の様な労働環境で働かされた人々は膨大な数にのぼる。
強制でなくても、農地や職を日本人に奪われ、
日本に行けば仕事がありそうだと聞き、半ば強制のような形で渡って来た人も多い。

真っすぐに延びたこの大阪の平野運河(旧百済川)にも、強制徴用の歴史が刻まれている。




平野運河建設当時、周囲一帯には養鶏場と養豚場が立ち並び、
雨が降ると氾濫がおきて地域全体が湿地帯と同じ状態になってしまった。
それを徴用された朝鮮の人達が、今の姿に作り変えたのだと言う。

戦争が終わるまで、日本の植民地支配が終わるまでと、
涙を呑んで故郷を後にして、異国の地で差別に遭いながら
苦労を重ねて来たけれど、
戦後も様々な事情(ほとんどが日本の悪政のせい)で日本に残らざるを得なかった人達。
それが在日コリアンと言われている人達だ。

2011年10月27日放送のKBSドキュメンタリー「韓国人の食卓」は、
多くの在日コリアンが暮らす大阪生野区が舞台となった。

闇市から始まった
大阪港。この海で繋がった玄界灘を越えると故郷がある。
事あるごとに思い出す故郷。いつかまた戻れるという希望を抱いて後にした故郷。
しかし日本は、帰り道さえも閉ざしてしまった。

日本の敗戦と解放。その後も続く差別と蔑視。
在日コリアンを支えたのは、忘れる事の出来ない故郷の味だったと言う。
案内役のチェ・プラム氏が、
在日コリアンが最も多く暮らす地域の中心にある鶴橋市場に向かう。

今は観光地としても有名になった鶴橋市場。
韓国の食べ物も、日本人の食卓に上がる事が多くなった。

その料理を作っている人達は、もちろん韓国人。
チヂミを焼いて売るオ・キセンさん。
「父方のお爺さんが韓国生まれで日本に来て、父は日本生まれ。自分は在日僑胞3世です」

「故郷は釜山」と言う、ソン・オクスンさん。
2011年で75歳だというから、1936年生まれだろうか。
10歳になる前に日本に来た事になる。

「故郷は済州島。現在の西帰浦市 大静邑 新桃里」と話す肉店のプ・ヨンチョルさん。


歌手のチョ・パクさん。

ニンニク臭がすれば、「あっ、韓国人だ」と言われ、
だからキムチは食べるなと言う人もいますが、
いや、自分が食べたいものは何でも食べると言うのも一つの戦いだから、
そんな点で、故郷の食べ物を食べると言う事自体が闘争でした。

解放直後は闇市だった鶴橋市場。
帰りたくても帰れなくなった人達は、生きる為に臨時の市場を今の姿に育て上げた。

食べ物が手に入りにくかった時代、在日コリアンが食べたのはコプチャンだった。
日本人が食べずに捨てていた牛の内臓を焼いて食べた。

日本人が「ほうる(”捨てる”の関西方言)物」として食べなかった内臓。
食べると体内のホルモンのバランスが良くなると考えて、
「ホルモン」として売り始めたのがその始まりのようだ。

在日コリアン二世の生活を支えてくれたのが、このホルモン焼きだった。
今では生野を象徴する食べ物の一つとなっている。

もうひとつの韓国
その生野で賑わいを見せる商店街の一つがコリアタウンだ。
買い物に訪れたのは、キム・ドゥヒョンさん、ヤン・フンシムさん母娘。
「私が幼い頃から母がよく来たお店です。
母と一緒に通いながら、これがいい あれがいいと教わっています」
と話すフンシムさん。

お母さんのキム・ドゥヒョンさんは、小さい頃に「君が代丸」に乗って大阪に着いた。
言葉も分からず、最初に韓国人が集まっているここを訪れたと言う。
「戦前は食べ物が無く、戦時中はさらに酷くなり苦労しました」と、当時を振り返る。
14歳の時に解放を迎え、その後大阪で出会った男性と結婚。
60年間苦労を共にし、その間喧嘩は無かったと言う。
※君が代丸:済州島~大阪間で定期的に運航していた連絡船(1922~1945まで運航)

娘のフンシムさんは、週に2回お母さんから故郷の料理を習っている。

今日は済州島でよく食べられるカボチャの葉のスジェビ(すいとん)と、
済州では양애(yang-e)と呼ぶミョウガの和え物を教わっていた。


「母からは色々習いますが、母の味はなかなか出せません」とフンシムさん。
これはオモニの味の代表格。テンジャンチゲだ。

フンシムさんが語る。
「大変だった暮らしの中で、高級料理は食べられなくても、
母の料理はとてもおいしかったです。
味噌汁一つとってみても、とてもおいしくて、母の味噌汁が今も記憶に残っています」

三世代に渡って受け継がれる故郷の食卓。
「昔と変わらないコリアタウン。亡き父はここが故郷なんだと、ここを愛していました。
父の事を思うと、日本に住んでいる私にとっても、ここが故郷なんだなぁと…」
とフンシムさんは涙ぐんでいた。

先祖への思いを込めて
午前4時のコリアタウン。祖父の代から続く豚肉料理の店の仕込みが始まる。
三代目である息子のそばを離れず、初代からの技を伝える父親のヤン・ジョンフンさん。

60歳のジョンフンさんは韓国語が出来ない。
忘れたのではなく、この世代の人達は学ぶことが出来なかったのだ。
生きる為のギリギリの生活を送っていたために、
高い学費を払って韓国語を教える学校に通う事が出来なかったのだと言う、

三代目のヤン・ヒョヌンさんが祖父の創業時代を語る。
祖父にとって、日本で豚肉を売るのがとても難しかったんです。
でも日本人は豚の頭が食べられないんですよね。
韓国人は好きなので、在日僑胞1世達に頭の肉だけ売りました。

祖父と父は愛情を持って肉を茹でるんですが、僕は愛情ではなくまだ友情です。
と、謙虚なヒョヌンさん。

そして今夜行われる祖父の祭祀の準備が始まった。
家族よりも多い知り合いが集い、みんなで手分けして支度をする。

故郷での祭祀に欠かせない料理の一つ。茹でた野菜を巻いた餅、「ピントク」。

サンジョク(산적:san-jök)に使われるゆで豚は、父のジョンフンさんが切る。

切り分けた肉を串に刺し焼き上げ、お供えのサンジョクを仕上げる。

今はみんなで手伝っているが、祭祀の膳に食べ物を供えるのは男性たちの仕事であった。
お膳が出来ても女性たちはお辞儀はしない。
また、肉のサンジョクだけは他人の手に触れないようにする。
亡くなった父親に向けて、息子の心を見せる食べ物だからなのだそうだ。

祭壇の前で初代である父にお辞儀をするジョンフンさん。

案内役のチェ・プラムさんが語る。
祭祀は亡くなった人への感謝の気持ちだけでなく、
生前に与えてしまった苦しみに対し、申し訳ない気持ちを送る儀式です。
子孫と先祖がつながる儀式です。

厳かな祭祀が小さな宴となった。

日帝植民地支配によって奪われてしまった故郷。
日本の敗戦後の棄民政策によって、帰る道を閉ざされてしまったが、
異国の地で新たに故郷を作り、代を重ね文化を継承して来た人達。

前出の歌手、チョ・パクさんの言葉で締めくくろう。
朝鮮に帰れ!! という罵倒ないしは差別・扇動に対しては、
これからこう答えましょう。
「そうですね、御天子様(天皇)もご一緒に! 帰国費用は国持ちですよね」


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