ジャズの師匠はチャーリー・パーカー♯2

図書館で天才チャーリー・パーカーの破天荒な人となりを知った俺。
ミュージシャン志望の身としては、音を聞かなくては始まらない。
彼が麻薬に侵されてしまう前の方がいいだろうと選んだ初期の作品が、
“Charli Perker On Savoy Vol.2″だった。
(実際はその大分前から既に麻薬禍にあったのだが)

ジャズってものに関して、その理論的なものも全く知らない俺だったけど、
聞こえて来た彼のアルトサックスの旋律は、「歌」だった。
コードチェンジが目まぐるしく行われる速いテンポの曲でも、
彼が奏でるサウンドは歌そのものだった。

BIRDのBIRDたる所以
曲の中心部にあるラインから飛び立って上に下に自由に飛翔し、
そしてまたラインの上に緩やかに着地する感覚。
これが、正に彼の持つ別名”BIRD”の由来だった。

圧巻は”KOKO”である。
“CHEROKEE”と言うスタンダードナンバーのコード進行上で、
彼が使い得ると感じたあらゆる音を使って吹きまくった曲。
ここに、彼自身が22歳の頃に原曲のソロとして吹いた”CHEROKEE”と、
それを彼が自分なりに更に消化し解釈し直した3年後の録音”KOKO”を並べてみるので聞いて欲しい。

“CHEROKEE” https://www.youtube.com/watch?v=Z3vACbUETa0
“KOKO” https://www.youtube.com/watch?v=okrNwE6GI70

二十歳そこそこで今のジャズの基礎を作った神
面白いのは、当時22歳だったパーカーが作り上げたbe-bopと言うジャズのスタイルが
当時のミュージシャンにはまだ難解過ぎて受け入れられてなくて、
バッキングを受け持っていたミュージシャンが、
「ズンチャッズンチャッ♪」というスウィングのノリで演奏している事。

もう既にこの当時でパーカーは革新的すぎる事をやっていて、
理解して一緒に歩むミュージシャンはほとんどいなかったのだが…

ところがそれから3年経った1945年の”KOKO”では、
共演陣が、所謂モダンジャズの装いで演奏しているのが興味深い。
先頭を突っ走っていたパーカーになんとか追いついたということなんだべな(´罒`)✧

1945年。
日本では「玉音放送」なんてクソみたいなラジオ放送が流されていた事を考えると、
その頃のアメリカは、なにがしかの突出した才能さえあれば、
神に近付くことが出来た社会でもあったのかなぁと思う。

だがしかし、バードことチャーリー・パーカーは、
自分がアフロアメリカンであるが故に、
アメリカ社会では決して神にはなれない事を知っていた。
それが彼を酒と薬に追い込み、最終的には死に至らしめたのだが…。

あれっ?!!
いやいや~、話が横道に逸れでまったなぁ~(´罒`)✧
続きはまた今度って事で…(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)

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