ソウルから南西へ約30キロ。韓半島京畿道西部の街・安山市。
「キム・ヨンチョルの洞内一周」2019年7月27日の回では、
多国籍文化共生の街として知られる安山市の中でも、
特に外国人居住者が多い元谷洞(원곡동:wönggokdong)を散策。
一目見て客人の国籍をあてる社長が営む旅行カバン店、
外国人向けの海外米の販売店などを覗きながら、
良い香りに惹かれてヨンチョル氏が立ち寄ったのは、ロシアパンの店。
そこでウズベキスタン出身だという母娘に出会う。
ウズベキスタンからこの安山市に移り住んだと言うアリョーナさん母娘。
アリョーナさんはオモニと一緒に近くでククス(麺物)の店をやっているという。
「ロシア式で作る高麗人の料理です」と、アリョーナさん。
興味津々のヨンチョル氏は、アリョーナ母娘とともにその店へ。
迎えてくれたのはアリョーナさんのオモニのキム・ベラさんだ。
厨房には、オモニが15歳の頃の写真が飾られていた。
ウズベキスタンの綿畑で働いていた頃に、友人たちと撮った写真だという。
日本植民地時代に戦争協力の為に両親とともに強制的にサハリンへ移住させられ、
その後ウズベキスタンに移り住んだと言うベラオモニ。
韓国に来た当初は忙しかったです。
水原のモーテルで掃除の仕事をしていました。
仕事は難なく出来たけれど、言葉が上手くできずに苦労しましたね。
ベラオモニの家族の様に、日本やソ連の勝手な都合に翻弄されて
ロシアで暮らすようになった高麗人をロシア語でカレイスキーと言う。
このカレイスキーと言う言葉。どこかで目にした記憶がある。
そうだ。
つい先日亡くなられた、在日コリアンの徐京植さんの著書「ディアスポラ紀行」にあったのだ。
過去約100年の間に朝鮮半島から世界各地に離散する事になった朝鮮人達。
その中の一つの属性としての「高麗人:カレイ(高麗)スキー」。
多くはスターリン時代に中央アジアに強制移住させられた人々。
彼らカレイスキーにとって、韓国は心の故郷であると同時に、
一生懸命働けばお金を稼ぐことが出来る夢の国でもあった。
夢を求め最初に故郷韓国の地を踏んだのはアリョーナさんで、2011年の事。
その3年後には両親が合流し、娘を手伝いながら安山での生活が始まった。
「家族みんなで暮らせてうれしい」と語る父のキム・ブラディミールさん。
話を聞いていたヨンチョル氏。
「ここで食事をしたいので、何か作って下さい」とオモニを見る。
「では、ククスをお召し上がりください」と、ベラオモニ。
ベラオモニの得意料理のククス。
別名「ロシアククス」と呼ぶ冷麺だ。
サハリンの高麗人たちが、故郷を思いながら作り食べたソウルフードだと言う。
豚肉でとったスープ。具材は甘酸っぱく和えた胡瓜と、トマト、キャベツ等。
中央に置かれたのは、편육:pyönyukのスライス。
편육:pyönyukとは、豚の頭を茹でて切り分け、それを型に入れて押し固めたもの。
ククスにはマンドゥ(餃子)もつくようだ。母子でマンドゥ作り。
じゃが芋の粉で作った皮に具材をタップリ詰め込む。
これを蒸し上げたら完成だ。
スンデ(腸詰め)も出来上がった。
そして食卓に並んだ「ロシア式高麗人ククス定食」。
身はウズベキスタンにあっても、いつも舌先に感じていた恋しい故郷の味。
オモニのそのまたオモニから伝えられた料理を、記憶をたどり再現した高麗人の食卓だ。
「どんな味か気になるでしょ」とヨンチョル氏。
「韓国人ならだれもが親指を立てたくなる、そんな味です」とほほ笑む。
ヨンチョル氏、胡瓜の和え物の味が特に気に入ったらしく、お代わりをしていた。
私たちは韓国人なので、韓国に来てよかったです。
でもウズベキスタンで育ち、暮らして来たので、
時々行きたくなりますね。
と言うアリョーナさん。
最後にヨンチョル氏が語る。
いつも置いてきた家が恋しくなってしまうカレイスキーにとって、
この安山の家が、本当の暖かい家になればいいですね。
元々は日本植民地時代の圧政に耐えかねて、ロシア国境近くの沿海州へ定住した人達。
日帝のスパイの恐れがあるとされ、
スターリンにより中央アジアに移送されたのが所謂「カレイスキー」。
アリョーナさん一家は違う段階を踏んでそうなったが、
最初に故郷を離れた原因は、日帝によるサハリンへの強制移住だった。
一体どれだけの人が、日本の圧政によって涙で故郷を後にしたのか。
考えると気が重くなるが、向き合うべき歴史の1ページである。