Scott LaFaro、Paul Chambers、Jimmy Garrison。
俺の好きなベーシスト達。
三人とも早世してしまったが、音楽家として遺したものは大きい。
ベースと言う楽器は前面に出てメロディーを担当するものではないので、
所謂「アドリブ・ソロ」を弾く機会は少ない。
しかし1曲の始めから終わりまで演奏に参加してるので、
そういう意味では聞きどころが満載である。
ベースなんてアドリブ・ソロ以外はみんな大体同じなんじゃないの?
なんて勘違いをしている人が結構いるけれど、そんなことは無い。
地道に四拍を打っている時のベースライン一つとってみても、
たとえ同じ曲や同じコード進行であろうが、演奏者によって使う音は全然違うし、
同じ奏者であっても、毎回同じ旋律は弾かない。
そして何より、同じ楽器を弾いていても、
奏者によってリズムの生み出し方や、旋律の紡ぎ方、音質等々、個性が全く違う。
勿論それはこの三人に限られたことではないのだが、
この三人は違いが際立っていると、俺は感じたのだ。
Scott LaFaroは、特にBill Evans、Paul Motianとのトリオでの演奏から、
その非凡で個性的な演奏を聴く事か出来る。
この三人だからこそ作り上げられた間、呼吸みたいなものもあっただろうね。
ピアニストのHampton HawesやPat Moranとの演奏も、
Bill Evans Trioの時の様なグループとしての不思議な一体感は無いが、
ベーシストとしてノリを作るScott LaFaroの演奏は冴えまくっている。
Paul Chambersは実に多くの演奏家と共演している。
15年程の現役期間に、様々な演奏家の録音に参加し、
その数、アルバムにして400枚程。
そのほとんどが後に名盤、名演と呼ばれる作品であり、
しかも、伴奏者である彼の演奏は、主役に負けない輝きを放っている。
リーダーとしての録音も何枚もあり、
俺は10年ほど前にその中の8枚をまとめて編集したCDを買った。
そういう意味では便利な世の中になったものだ。
彼が生み出すリズムとハーモニー感覚の素晴らしさ、独特なリズム感は、
この8枚だけ聞いていても十分に堪能できるし、
沢山の演奏家が、彼を伴奏者として起用した理由が分かる。
さて、もう一人のベーシスト、Jimmy Garrison。
彼はJohn Coltraneのグループで固定メンバーとして活躍した事で知られるが、
俺が大好きなのは、John Coltraneと共演する前に録音した、
Walter Bishop Jr.のピアノ・トリオのアルバム”Speak Low”での演奏だ。
重厚な音で曲の流れをグイグイ引っ張りノリを生み出す奏法。
サックス等のリード楽器が無いピアノ・トリオの演奏だからだろうが、
ベースの活躍ぶりがより分かりやすく録音されている気がする。
いやぁ、しかしこのリズム感はなんだ?
彼だけでなく、紹介した三人全てが持っていた独自のリズム感。
いや、この三人だけではない。
人間はみなそれぞれにリズム感覚を持っているはずだ。
体から湧き出て来る「ノリ」。
音楽が鳴り出すと、自然に踊り出したくなる「ノリ」だよ。
音楽家は音楽的に際立ったリズム感を持ち合わせてはいるだろうが、
俺達にだってリズム感やノリの感覚はあるのだ。
日本人は幼少期からそれを潰されてしまっているんじゃないか?
若い頃はジャズダンス、最近は社交ダンスのサークルに通っていた俺の連れ合いさん。
社交ダンスサークルに来てる人達って、そこで使ってる音楽に合わせては踊れるけど、
例えばサンバのようなノリのいい曲がかかっても、
ダンスとして習ったことがなければ、自然なノリで体を動かす事ができないんだとか。
つまり日本の「お遊戯文化」は、体から湧き出る自然なノリを潰しているのだ。
ダンスってのは「振付」はあるけど、それが全てではなく、
鳴っている音楽に心が揺さぶられて、体からリズムが出てくることが最も重要だ。
「江南スタイル」が世界各国の人達に受け入れられたのは、
音楽や映像から独特の「ノリ」が溢れていたからだろう。
それぞれの振付が多少ズレていても気にしない。
大事なことは一人一人が自分のリズムで楽しくノル事なのだ。
日本の音楽家の演奏を聞いていて、
その人の体から湧き出る様な「ノリ」を感じられる人が少ないのは、
「個」の「楽しさ」や「ノリ」よりも「人と合わせる事」を強要する教育の結果だろう。
楽しくノル事を幼少期から抑圧される社会って、日本ぐらいじゃないのか?
日本の中にある同調圧力の第一歩目が、それなのかもしれないな。
いや、もしかしたら個として持つ楽しさやノリは、
天変地異に繋がる「穢れ」だという思想が、
この日本のどこかに残っているのかもしれない|||(-_-;)||||||