トムラウシ山の遭難事故を覚えているだろうか。
2009年の7月の事だった。
トムラウシ山から旭岳を縦走するツアーに参加した客15名と、ガイド3名の内、
ガイドを含む8人が低体温症で亡くなると言う事故になってしまった。
原因はガイドの判断ミスであったことは否めないが、
参加者全員が「予定通り」スケジュールをこなして帰ると言う事に拘った事が大きいだろう。
出発直後から雪渓で歩行がままならなかったり、
天候急変のために強風で転倒する者が続出するなど、度重なる参加者のアクシデントがあったのに、
「予定通り」を重視してしまった結果が、大惨事へと繋がってしまった。
俺が何を言いたいかと言うと、
今、中国当局の発表で感染者1万人を超えたと言われている新型コロナウイルスの脅威だ。
その国の政府と言うものは、自国の損失につながる事柄は低く見積もるものだ。
東電の破局的原発事故後の日本政府の在り方を思い出して見れば分かるはずだ。
原発事故の時に「パニックを防ぐため」とSPEEDIのデータを隠した日本政府。
それよりは中国政府の方がはるかにましだろうと考えても、
感染している人間は、中国国内では十万~数十万人いると考えた方がいいかもしれない。
潜伏期間が2日から2週間だと言われている新型コロナウイルス。
既に感染していても、症状が全く出ておらず、健康に暮らしている人を「ウイルスキャリア」と言う。
そのウイルスキャリアが街中を闊歩していたと想像できる観光地を中心に、
日本国内にも相当数の感染者がいると考えるのが、「予防」の観点では当たり前だろう。
しかしその危機回避の「当たり前」が通用しないのが今の日本だ。
経済活動を滞らせないために、予定していたスケジュールは何があってもこなす。
北海道では、海外からの観光客で溢れかえる札幌雪まつりが予定通り行われる。
トムラウシ山の遭難事故の時の様に、迫り来る危機を示すサインはこれまでいくつも出ていた。
大惨事になる前に、山小屋に戻るチャンスはあったはずだ。
しかし、過去の犠牲に学ばない社会は、同じ過ちを繰り返してしまうのだろう。
「犠牲」とは、宗教の世界では誰かの命を守る為に神に捧げられた人や動物の命の事を指す。
事故で亡くなった人達の命を粗末に扱い続けているのが日本だという事は、
今回の新型コロナウイルスの一件でもよーく理解できた。もうお腹いっぱい。