標準語が日本語の全てではない

世界の様々な言語の情報密度について書かれた
「日本語という言語の致命的な情報量の少なさ」
というブログ記事を読んだ。

情報密度に於いて、日本語は多言語よりかなり低いというデータも紹介されていた。
情報密度を、ベトナム語を1とした場合に、英語は1.08、仏、伊、西、独、北京語が0.9台。
それに対して日本語は、なななんと0.74という低さ。
単位時間における日本語の情報密度は、英語の68%だと言う。

どういうことか詳しく紹介すると、
例えば米国でも「スター・ブレイザー」というタイトルで放映された「宇宙戦艦ヤマト」の歌詞。
出だしの「さらば地球よ、旅立つ船は、宇宙戦艦ヤマト」の部分。
英語では”We’re off to outer space. We’re leaving mother Earth. To save, the human race. Our Star Blazers”となっており、和訳すると、
「私たちは宇宙へ向かう、母なる地球を旅立つ、人類を救うために、我らがスターブレイザーズ」
と、圧倒的に情報量が多い。

なぜこうなるかと言うと、これは言語の構造的な特徴から来ている。
英語などの多くの言語は子音終わりが多い閉音節言語。
それに対して日本語は、子音にもれなく母音がついて終わる開音節言語だ。

ブログでも紹介されていたが例えば”demonstrate”と言う単語。
これは発音上の母音は3つの三音節である。
しかしこれをカタカナで書くと「デモンストレート」と、8音節にもなってしまう。
これが単位時間内の情報密度の濃淡を分ける原因になっている。

が、しかし、待てよ、と。
“demonstrate”は、日本語で言ったら「示す」=shimesuで、三音節ではないか。
さっきの宇宙戦艦の歌詞も、英詞の和訳の様な意味を音符に乗せようと思えば可能なのだ。
ただ、歌にはその歌としての情緒があるから、
言葉をあまり詰め込み過ぎると雰囲気が台無しになってしまう。

ここもやはりカギになるのは、開音節と閉音節。
閉音節の言葉だと、単語数が多くても音階に乗せやすい。
しかし開音節の言葉だと、ドタバタ感が半端じゃなくなってしまう。
「日本語はロックに乗りにくい」なんて、よく言われたものだ。
だから歌としての情緒を重要視して、情報量は抑えるという「文化」があるのではないか。

でもやっぱり同じ事を表現するのに英語の1.5倍も時間がかかってしまう日本語は、
会話には不向きな言語なのだろうかと思える。
しかしここで「はっ!!」と気が付いた。
俺が使っている青森県の津軽や下北、その他東北地方の影響が色濃い函館語。
その中の例えば「あずましい」という形容詞。

これを標準語で表すなら、「十分に満足が行き落ち着ける」でも表し足りない。
「あずましい」は全道的に使われているから、道民ならその感覚が分かるはずだ。
標準語で表せばとてつもなく長くなる意味を、5音節で表現している。

他にも…
・むっためがす:わき目もふらず一心不乱にやる
・うるがす:水に浸して水けを含ませる
・のへらっと:何をする訳でもなくむボーッと
・せつぐ:急がせる
・こえ:疲れた
・へずね:辛くて苦しい
・起ぎらさる:(起こされた訳ではないのに)一人でに起きてしまう
等など、書き出したらいつまでも終わらないほどある。

こんな風に、所謂「方言」には、少ない音節で深い意味を表現できる語が甚だ多い。
方言という呼び方は政治的中央で使われている言葉が訛ったものと勘違いされがちで差別的だが、
柳田國男が『蝸牛考』で書いた「方言周圏論」の、
「文化の中心から、地方に言葉が伝播し、中心から遠い地方に古い語形が残る」
という仮説を基にして考えるなら、中央から遠いい「方言」こそが本来の日本語なのではないか?

実際に東北地方の人々は、長い間天皇の統治に「まつろわない」民で在り続けたし、
江戸後期になっても、東北の言葉は中央の人間には聞き取りがたいものだった様だ。
それくらいに、同じ日本語ではあっても差異のある言語だったし、
現代でも、標準語が失ってしまった相や時制その他の機能等をも保持しているのが地方の言葉なのだ。

つまり長々と書いて来て何を言いたいのかと言うと、
世界にある言語は、それぞれが意思疎通の道具なのだから、
短時間に自分の意志や気持ちを相手に伝えられるように発展してきたはずである。
だから、日本語も当然そうあるはずなのだが、実際は単位時間当たりの情報密度が低い。

しかしここで日本語と言っているのは、実は日本各地の言葉が衝突し、
相や時制などの機能も失ってしまった東京方言が基になっている標準語である。
日本語とは言っても、おそらく古い日本語とは相当違うものになっているのだろう。

きっと古代の日本列島人は、
自分達の使う言葉が開音節で単位時間当たりの情報密度が低い事を本能的に感じて、
沢山の情報量を含ませた言葉を、少ない音節で表せる様にしたのではないかな。
それが方言として地方には残ったのではないか。

・太郎、駅長でら:太郎は(「一日駅長」の様に一時的に)駅長である
・太郎、駅長だ:太郎は駅長である
(青森県五所川原)

・花子ん顔、白か:花子の顔は(いつも)白い
・花子ん顔、白かりよる:花子の顔は(今だけ)白い
(熊本県宇城市松橋)
※「複数の日本語/工藤真由美・八亀裕美」より

地方の言葉には、時間的限定性を短く表現する機能も残されている事が分かる。
時制についても見てみよう。
これは西日本の四国は愛媛県宇和島方言である。
a. 9月に学校が建った
b. 9月には学校が建ちよった
c. 9月には学校が建っとった 

aは、竣工は9月。bは9月には学校が建設中。
cは9月には既に学校が建っていたという意味。
標準語では動詞の変化だけでこれらを表現できない。
※「複数の日本語/工藤真由美・八亀裕美」より

この様に標準語が日本語なのだと考えてしまうと、
確かに情報量と言う点では紹介したブログにある通り貧弱な言葉だ。
だから標準語で意思疎通を図る場合は、
億劫がらずに文字数を使って自分の意思を伝える必要性が生まれるんじゃないかな。
主語を省いたり、曖昧な表現では相手には伝わらないだろう。

日本人同士なら多くを語らずとも分かり合える、なんていうのは、
古い時代や地方では通用するかもしれないが、
標準語の世界では不可能になってしまったのてはないだろうか。

ここまで見てきて分かるのは、標準語が日本語そのものだという考え方は
どうやら間違っているのではないかと言う事だ。
日本にある「方言」も含めたすべての言葉が日本語なのであり、
そうであれば、それは情報伝達の上で世界の様々な言語と同様に
優れた機能を持つ意思伝達の道具だと言っていいのではないかな。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする