ある時、偶然にツイッターで流れて来たブルースマン・近藤房之介氏のツイートを読んだ。
氏が尊敬するアフロアメリカンのブルースマンが語った話。
アフロアメリカンは、白人たちが畑に棄てて行った大根や人参の葉を拾い、
それを細かく刻んで炒め煮にして、毎朝の食卓に並べていたと言う。
こんな話を聞いてしまったら、ブルースについて何も語れない。
そんなツイートだった。
俺はこの記事を読んで、すぐさま日本人が隣国の人達にした事を考えた。
それで、新聞記事なんかにやる様に、引用ツイの形で…
白人がアフロアメリカンにした様な事、否、それ以上の事を日帝・皇軍は朝鮮半島・中国などでやった。
家畜、収穫した穀類、野菜など根こそぎ収奪して、人々を殺し、最後には村に火を放ったんだから。
それを知ったら「いつまで謝ればいいんだ」なんて言えない。
と、ちょっと嫌味っぽく、でも直接のメンションじゃないからいいだろうと思って書いた。
そうしたら思いがけず、近藤氏から直接メンションが来た。
でも僕やあなたが殺したわけじゃない。
歴史は常に勝ち組の為に在るし、
日中戦争以前の日本が、国際的に被差別下にあった事も考えて欲しい。
と言う内容のものであった。
俺もこのメンションを読んで、考えた事を直接返信した。
確かに俺達に直接的な責任は無いでしょう。
が、最高責任者が責任逃れをし、被害側に謝罪しては背を向け舌を出す行為を続ける国の態度は続き、
俺達はそこの国民である以上、史実について知り考える事は必要でしょう。
過去に日本が国際的に被差別下にあったとしても、加害が冤罪されるとは思いません。
歴史が近藤さんの仰るように常に勝ち組の為に在ると言うのなら、
Mr.Otis Rushの話しだって、「仕方ないねぇ」という事になってしまいませんか?
権力者側から歴史が勝ち組の為に在る様に思い込まされて、それに甘んじていて良いとは思えません。
それに立ち向かうのがBLUESなのではないですか?
昔も今も、アフロアメリカンの音楽に触発されて表現活動をしている人はいる。
でも、俺の目には、その人達のほとんどが所謂「文化の盗用」に終わっていて、
精神的な部分を体現しようとしていない様に映っていた。
近藤房之介氏がそうだと言う事ではもちろんない。
氏の歌にはBLUESの魂がこもっていると感じている。
氏は、ツイートにあったように、尊敬するブルースマンに学び、
アフロアメリカンの歴史から霊感を受けているはずだ。
俺が近藤氏の最初のツイに嫌味な引用リプをしたのは、
アフロアメリカンの音楽に親しみ、
彼らの奴隷貿易から今まで続く差別の歴史に触れる事が出来たら、
「被差別者であったアフロアメリカン」程度の認識で止めないで欲しいと思ったから。
ひいてはそれを彼らだけの問題としてではなく、
日本の中にある歴史捏造の問題に置き換えて、
過去の日本の戦争加害の歴史を知ることによって、
日本社会に今もハッキリとある民族差別の根っこを知る事が出来るだろうと思ったから。
繰り返すけど、これは近藤氏に直接宛てた訳ではなく、
氏のツイートに反応した形で、広く世間に向けて書いたものである。
今活動している日本のラッパーが権力批判や社会風刺をやらないのは、
今の若者の政治意識が特別に低い訳ではなく、
昔から日本の音楽家を含めた表現者のほとんどがそうであったからで、
それがそのまま引き継がれれているという事だろう。
アフロアメリカンの音楽を演る人がアフロアメリカンの過酷な歴史を学ぶ事は重要だけど、
そこから派生して日本が過去に他国に背負わせてしまった過酷な歴史も…とならないとさ。
日本人は戦争や反戦を語ったり反戦歌を歌う時は、ほとんどの場合被害者としてだからね。
戦前から同じひと続きの日本人であるのにも関わらず、
原爆や大空襲を受けた被害者としての日本人には毎年向き合うけど、
虐殺、略奪、強姦を繰り返し、強制連行しタコ部屋労働させた
加害者としての日本人については知りたくないではさぁ。
などと偉そうな事を言っているけれど…
若い頃からブルースやジャズを演ってきた俺は、
アフロアメリカンの音楽の歴史と共にそれを生み出した人達の歴史的背景を調べ、
奴隷貿易~奴隷解放~公民権運動を学び、
キング牧師やマルコムXについて書かれた本を読んだりもした。
でも当時の俺は、虐げられて来たアフロアメリカンと、
社会の底辺にいる自分を並べていただけであった。
要は俺も被害者意識のもとでしか差別については考えておらず、
被差別者としての意識を共有しようと思っていたに過ぎなかった。
その後、歴史的にはとんでもない加害者側であった日本人、
自分は戦前からひと続きのその日本人の一人であることに気が付く。
そうなると学びの仕方が変わるし、考え方も変わる。
諸悪の根っこには何があるのか、批判されるべきは何なのかが分かり出す。
近藤氏は俺が返信した後に、こんな内容で個人的に呟いていた。
自分は韓国ツアーの際に謝罪した。
だから日本の加害の罪を背負うつもりはないし、背負い切れるものではない。
でも差別の連鎖と付き合う事もしない。
それに自分はブルースを正しく歌えてると思ったことは一度も無い。
ひとりの音楽家が、こういう事を発信すると言うのは重要な事だ。
ある程度名が売れたら、誰もが避けて通りたい内容の話だからね。
そう言う意味では、近藤氏には敬意を表したい。
ここで氏が書いている様に、
俺もあんなとてつもない戦争加害の罪を背負えないし、
背負うつもりで歴史に向き合っている訳ではない。
でも歴史を知る事で、日本に今もある民族差別の根っこがどこにあるのかが分かるし、
逆に言うと、知らなければ「知らない大勢」と一緒になって差別の連鎖に加わる恐れもあるのだ。
加害の歴史を知らずに、隣国の人達に「仲良くしよう」なんて言うのは図々しすぎるし、
加害の歴史を知ったら、尚更「仲良くしよう」なんて軽々しく言えなくなる。
日帝・皇軍の加害の劣悪さ、残虐さを知ったら、
そして敗戦後に日本の政治家・著名人が隣国に対してとり続けている態度を知ったら、
「いつまで謝罪を続ければいいんだ」なんて、とてもじゃないけど言えない。
民族差別には反対すると言いながらも、そのハッキリした理由も分からなければ、
それは形だけの、崩れ易いモノになってしまう。
何より、明治から変わらぬ体質の日本政府の在り方と自分が同じなのは耐えられない。
だから歴史から学び、知った事は伝えたいし、
日本の在り方とは違う自分の生き方に繋げたい。
無論、民族差別だけに限らず、あらゆる差別についてそれは言える。
なぜその差別があるのかを学び、知った事を伝え、では自分はどう生きるのかを考える。
その上で表現を始めれば、当然それ以前とは違ったものが生まれるだろう。
「正しく」ではなく、「誠実に」表現できるようになると、俺は信じる。
正にチャーリー・パーカー師匠が言う
音楽は、体験であり、思想であり、知恵だ
もし、きみがそれを実践しなければ
楽器からは何も生まれない
とは、この事だろうと思う。
※ツイートの著作権の問題上、近藤房之介氏のツイートは転載したものではありません。
※アイキャッチ写真は、友人であった魂のサックス吹き、故・安波知己氏です。