江原道の東海岸の街、束草市清湖洞に、アバイ村と言う地域がある。
朝鮮戦争の真っただ中であった1951年の「1.4後退※」当時、
朝鮮半島北部の咸鏡道から南側に避難した人々が、
その後休戦になり、人がほとんど住んでいない砂浜に定住し始めた。
アバイというのは、咸鏡道方言で「おじいちゃん」の意味だそうで、
避難民の中に年配者が多かったから、それが集落の俗称になったと言う。
※1.4後退:中国空軍の攻勢により、韓国政府がソウルから撤退し、
韓国軍は戦線を大幅に後退させた。
戦況が激しくなると一時釜山などに避難したが、
大部分は、北の故郷に近いこの地に戻り定着して暮らすことになった。
定住者の一人である양수근 씨(ヤン・スグンさん・67歳)が語る。
我が家の場合は最初は束草には避難せず、船があったので(南岸の)統営市に行きました。
そこで少し暮らしましたが、束草の方が北の故郷に近いし、
親戚達、父の兄弟もいたので、父と一緒にここに来ました。
ここに住み始めてから50年になります。
「韓国人の食卓」第13回目の放送で紹介されたのは、
このアバイ村の人達が愛する、故郷・咸鏡道の味。
それは’가자미식해’(ガジャミシッケ:カレイ食醢)だ。
案内役のチェ・プラムさんが束草の中央市場を歩いていると、
昼食にガジャミシッケを食べている人を発見。
「食醢(식해:シッケ)」は、朝鮮半島で古くから作られていた魚の発酵食品。
簡単に言えば、魚を主体にしたキムチの様なもの。
咸鏡道のものがとくに有名で、スケソウダラやイワシのシッケもあるが、
番組では、東海で年中水揚げがあると言うカレイのシッケを取り上げていた。
さて、自分で各種キムチを漬ける俺としては、やはり作り方が気になる。
先ほどのヤン・スグンさんのご婦人である、パク・スノクさんが解説してくれた。
まずはカレイに粗塩を振って和える。
次に、頭、尾とヒレ、内臓をとって切り分ける。
粟飯を炊く。この粟飯は、シッケの発酵を促すうえで重要。
切ったカレイに、その重量の10%前後の量の粗塩を振って全体を和え、1日程度置く。
塩をしたカレイを水洗いし水切りする。
さぁ、いよいよ仕上げだ。
水切りしたカレイ、さました粟飯、唐辛子子、おろしにんにくで和える。
これを容器に入れて、冬場は1週間、夏なら2~3日発酵させる。
発酵が進んで、食卓へ。
咸鏡道では、冬のキムチに変わる食べ物が、このカレイのシッケだったという。
唐辛子を使い始めたのは17世紀以降とのことだが、
それまでは、発酵のさせ方などは違うとしても、
日本の飯鮨やなれ寿司などと似た感じのものだったのかも知れない。
咸鏡道の名物してもう一品紹介されていたのは、
これまた俺にとっては耳新しい’명태순대’(ミョンテスンデ:スケソウダラのスンデ)。
これも作り方が興味深かったので、ザっとだけど紹介しておく。
スケソウダラの背骨と内臓を抜き取って洗う→ニラ、玉ねぎ、ニンニク、青赤唐辛子を刻んだものと、ゆでた豚肉を刻んだものを和えて具材を作る→具材をスケソウダラの腹に詰める→3日間ほど干す
焼いて食べても美味いそうだが、今回はこれを30分ほど蒸して…
ミョンテスンデの完成~♪
生きてる間に一度は食べてみたい料理は色々あるが、
今回紹介した2つの料理は是非っとも食べてみたい!!
カレイのシッケは発酵を経た生のカレイの味とともに食感が気になるし、
スケソウダラのスンデは、魚体と具材の絡み具合を味わってみたい!!
さて、今回は現在はDPRKに位置する咸鏡道の郷土料理を知る事が出来たんだけど、
こういう韓国のドキュメンタリーを観ていて感じるのは、
ほとんど毎回、その場所に日帝の爪痕が見えてくると言う事。
今回は日本植民地支配の話題は直接的には出てこなかったけれど、
朝鮮戦争にしても日帝支配が無かったら起きなかったかもしれない。
元々は日本の帝国主義に抗うために作られた金日成の共産軍は、
米国資本主義側と、中ソの共産圏の大国同士の思惑に利用され、
東西の代理戦争の形で朝鮮半島内で戦乱が起き、結果として国が南北に分断されてしまった。
斯様にこの戦争に日本は無関係だった訳ではなく、
更には米国資本主義側の国として、米国に様々な物資を供給し、
戦後の不景気を吹き飛ばす「朝鮮特需」なる好景気を生み出した。
敗戦によって朝鮮半島からの搾取を止められた日本が、
今度は朝鮮半島の戦争でまた搾取する側に回ってひと稼ぎしていたのだ。
歴史を知れば知る程憂鬱になってしまうが…
しかし、この様に、ただ韓国文化の消費に終わらせず、
日本と朝鮮半島の歴史について考える機会を与えてくれる番組を、
俺はとても有難いと感じながら観ている。
日本の番組ではありえない事だし。
さぁて、次は何を学ばせてもらえるだろうか 😛