韓半島の西側に位置する全羅北道の港町・群山市。
ここもまた日本とは深い繫がりのある街だ。
歴史的に見れば、残念ながら悪い意味でだが。
2019年1月19日放送の「キム・ヨンチョルの洞内一周」の舞台はその群山市。
魚市場に立ち寄り、市場で働くアジュンマ(おばさん)達と食事をし、
写真館、ボクシングジムと巡って、日本家屋らしき建物が並ぶ通りへ入った。
通りを歩きながら語るヨンチョル氏。
実は群山は、歴史的な「痛み」が多い所です。
ここは日本式家屋が多いですね。
こういう家屋を「敵産家屋」と言います。
特に月影洞は日本による植民地時代、経済の中心地だったそうです。
日本の商人達が、月影山の懐に温かく抱かれるこの住みやすい町を全て占めたのです。
その時代の敵産家屋は、今ではほとんどカフェやゲストハウスのような観光地に変身しました。
更に進むと、高い塀に囲まれた豪邸が現れた。
米穀商として富を築いた広津吉三郎が1935年に建てた家屋で、
映画「将軍の息子」、「タッチャ(いかさま師)」等の撮影地としても有名だ。
現在の正式な名称は「新興洞日本式家屋」。
家の豪華さから、どれ程の財力があったかがわかる。
玄関の引き戸の前で。
日本様式の格子窓が美しいと語るヨンチョル氏だが、心境は複雑だろう。
内部も豪邸にふさわしく立派なものだ。
これらが朝鮮半島の人々からの搾取によって作られたことを忘れてはならない。
庭を歩いていると、箒で掃除をしているおばさんに出会った。
一般開放しているこの屋敷の管理人を任されていると言う。
観光客に頼まれて、写真を撮ってあげたりもしていた。
おばさんに話を聞く。
(植民地時代は)広津という日本人が住んでいて、
(解放後に)日本人が追い出される時にここの人達も出ていき、
そのあとに製粉会社の社長が家族と一緒に暮らしました。
群山は日本による植民地時代には、収奪した米の前進基地であり、
地味豊かな湖南平野で産した大量の米を日本に運んだ通路だった。
繰り返しになるが、こうして朝鮮の人々から奪い、それで財を成し、
建てられた豪邸の一つが広津家屋だったということだ。
少し古くなるが、’일편단심 민들레’(一片丹心タンポポ・邦題:一途なタンポポちゃん)
という’60~’70年代の製粉工場を舞台にしたドラマがあって、
その製粉工場の社長の家が敵産の豪邸だったことを思い出した。
もしかして広津家屋の歴史的変遷がモデルだったんだろうか。
さて、場所は変わって、都心のど真ん中にある寺院。
월명산 동국사〔wölmyöngsan-tongguksa〕:月明山 東国寺
※韓国語には2つの「オ」があり、오は日本語のオと同じ発音だが、
어の方は口は「あ」の形をして発音は「お」なので、
このブログでは、区別するために発音記号として〔ö〕を使う。
この寺院も日本式の建物。日本植民地時代の痕跡だ。
韓国の寺院は鮮やかな色遣いで、屋根には曲線が多く使われているが、
これは建物の作りや、白黒の色遣い等が日本式そのものだ。
この寺の昔の名は「錦江禅寺」。
日本植民地時代の36年間、日本の僧侶達が日本人の信者の為に運営した。
解放後に、曹渓宗が引き取り、韓国の寺院・東国寺となった。
庭に出て来てくれた住職と話すヨンチョル氏。
「日本式の寺じゃないか」と非難する人もいたでしょうに。
保存した理由は何ですか?
朝鮮総督府の建物を解体する時に、ここも解体することになりましたが、
群山市民は勿論、仏教関係者たちが、「辛い歴史も私達の歴史だから」と、
ここは宗教的な場所だと考え、残すことを提案し、保存する決定がなされました。
ヨンチョル氏が語る。
二度とあってはならない地獄の歴史を直視し、覚えておかねばなりませんね。
だからでしょうか。
東国寺の一角には、慰安婦被害者の人権と名誉回復を願う平和の少女像が建てられています。
少女の像は、本当に多くの物語を語っているようです。
ヨンチョル氏が日本植民地時代〔韓国では日帝強占期〕に触れるたびに、
先人達の辛い歴史に思いを馳せて動揺している様子が伝わって来る。
かつて日本が行ったことが、今に生きる人達にも辛い思いを強いている。
この事実から、俺は目を逸らさないように生きたい。