ゆるゆる廃線巡り 天北線その2

まぁしかし廃線巡りなんかをしながら農村地帯、酪農地帯を進むと、
離農して人が去った後の、朽ち果てた住まい、納屋、牛舎なんかをあちこちで見る。
残ってその土地で踏ん張って働いてる人も、高齢者が多い。

日本の農業従事者の平均年齢は68歳だ。
このままで日本の食は大丈夫なんだろうか?
てな事を考えて漠然とした恐怖を覚えながら、田舎道を走っているのであった。

線路跡はサイクリングロードになって北上
えっと、その1は浜頓別で終わったんだよな。せば、次は安別駅だべさ。
でも今回は時間の都合でカット!!
これは2008年の冬に撮った写真だよ~ん( ̄皿 ̄)
安別駅の待合所だった建物が、サイクリングの休憩所になってるんだわ。今も健在らしい。

ほんでこれが、安別駅跡から猿払側を見た写真。
サイクリングロードとなった天北線の路盤跡が真っすぐ伸びている。

時々2008年写真が顔を出す事をお許しくださいm(_ _)m

真っすぐ延びた線路が次に向かうのは、飛行場前駅。
2008年の時点では駅名標の枠とホームが遺っていた。
写真奥に、路盤の跡が更に真っすぐ真~っすぐ伸びている。

さて、飛行場前という駅名なのだが、こんなところに飛行場?って思うべさ?
実は近くに浅茅野第一飛行場と言う、昔の陸軍の飛行場があったんだって。

国土地理院・空中写真4番
赤ラインが旧天北線で今はサイクリングロード。
赤丸が飛行場前駅。青ラインは今の国道238号線。
赤ラインの左側の敷地には、滑走路と思しき幅広の直線や、各種建造物、
左下には掩体壕(えんたいごう)が見える。
これは、1948年に米軍が撮影した空中写真。

浅茅野第一飛行場は、もう戦争も終わりに近づいた1944年に建設された。
つーことなので、ほとんど使われずにお役御免。
時局を見ずに、決めたらやってしまう姿勢は、今も変わらず。
反省の無い国は、いつまでも同じ過ちを繰り返す。

線路は再び内陸に入って北を目指す
さて、次の浅茅野、猿払、芦野の各駅は都合により省略( ̄皿 ̄)
内陸部に入った鬼志別駅は、列車交換が出来る駅だった。構内は単線じゃなかったって事だな。
駅跡はバスターミナルになっていて、建物の中には天北線資料室がある。

駅跡に交流センターが建てられた小石駅は通過して、次の曲淵。
駅跡は公園になって、駅名標風の看板が建てられている。
で、この辺は元線路だったところが道路になってて、俺はそこを走ってここに来た( ̄ー ̄)

続く沼川駅はねぇ、駅跡が記念公園みたいになってたわ。

駅名標は複成だけど、いい感じだよねぇ。現役時代の沼川駅の写真パネルもあったよ。

さぁ、ここから天北線は一気に北上して終点の南稚内駅を目指すよ。
沼川の次の樺岡は、もうなんも無くなってたので、駅名標があった2008年の写真をば(^^♪
この時でもかなり傷んでたからねぇ。撤去されちゃったんだべなぁ…。

次の駅、恵北の駅跡近くには、「開基百年記念碑」が建てられていた。
先住者であるアイヌ民族を無視した「開基」とか「開拓」って言葉、俺は嫌いだ。
正直になって「侵略」「植民」にした方がいい。

この後もズンズン北上して行くが、声問駅跡は更地になり…

宇遠内駅跡は、住宅街の中に埋没していた。

天北線終点は南稚内だけど、稚内まで行くど~
天北線の終点駅として、宗谷本線に接続していた南稚内は、現在も宗谷本線の通過駅。
これまた2008年の写真ですんません。

この時は、今はポールしかなくなってしまった駅前植え込みの時計がまだあったんだな( ̄∇ ̄)v
南稚内駅って言うとねぇ、宗谷線が無くなる前に乗っておこうって、
2018年の秋に息子氏と二人で南稚内まで鈍行に乗って、駅前のホテル宗谷に泊まったんだよね。
しかし残念な事に、そのホテル宗谷は廃業してしまったらしい。

天北線巡りはここまでだけど、ついでに日本最北端の鉄道駅まで。
稚内駅周辺は、すっかり様変わりしちゃって、駅も再開発ビル「キタカラ」と一体化。
駅前広場には、「日本最北端の線路」の碑と車止めが並んでいた。

駅の中には「道の駅わっかない」も入っていて、地場の美味いものが手に入るよ。
せっかく最北端まで来たんだから、あちゃこちゃ観て歩くべ~(^^♪
にしても、函館て生まれ育った俺が、稚内に何度も行ってるってのは感動的( ̄皿 ̄)
昔は一生行く事もねぇだろうなぁって思ってたからね。

っつーことで、コアな廃線ファンをイラッとさせる、
ゆるゆる廃線巡り・天北線の巻、
2回に渡っての一巻の終わりでございます(@^^)/~~~

 

 

 

 

 

 

 

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